剣道は剣の理法の修錬による
人間形成の道である

群馬県社会人剣道大会を振り返って・・・

高崎支部相談役 笠井秀昭

群馬県社会人大会は半世紀の永きに亘り開催されてきましたが、昭和42年高崎市立片岡中学校体育館で約50名の選手参加、オープン大会として始まりました。
これを契機に昭和43年に第1回大会が故古関幸平先生(元群馬県剣道連盟会長、範士七段)の剣道の普及発展のためという強い熱意のもと高崎市立片岡中体育館で開催されました。第3回(昭和45年)以降は県武道館に会場を移して、第13回(昭和55年)まで行いその後、第14回(昭和56年)からは高崎市中央体育館で開催、現在に至っています。
 剣道は戦後、長年の空白の時を経て昭和27年に復活したとはいえ、昭和40年前後の剣道界はまだ満足のいく環境ではなかった時代でした。
 故古関幸平先生の剣道に対する情熱、強い信念、又豊かな経験を通して、群馬県剣道の発展向上を図るとともに後継者育成、又剣道愛好者のために交剣知愛の精神で日頃試合に出場する機会の少ない社会人のために、予選もなく、年齢制限もなく、段位(六段以下無段含む)もなく、それぞれに親睦が図られるよう、多くの人がエントリーすれば参加出場出来るようにこの大会が設立されました。
 第1回大会より、元内閣総理大臣 故福田赳夫先生を名誉会長としてお迎えし、長い間ご祝辞をプログラムに掲載させていただきました。また、記念手拭も揮毫していただきました。又、前回大会(49回)より衆議院議員の福田達夫先生を大会顧問としてお迎えし、本大会に多大なご尽力を頂いています。
 平成5年、第26回大会終了後、古関先生が急逝され、2代目会長として柴田重信先生(桐生)が引き継がれました。平成6年、第27回大会は柴田会長のもと、故古関幸平先生追悼大会と銘記して、先生と親交の深かった全剣連審議委員範士九段市川彦太郎先生、範士八段村田茂先生、警視庁主席師範教士八段田口栄治先生はじめ多数のご来賓をお迎えし、盛大に追悼記念大会を開催いたしました。
 第1回大会から第13回大会は参加チーム3人編成のトーナメント方式で運営。参加資格は県内全域より道場、職場、クラブ又仲間同志でチームを編成して参加をして頂き、(大学生は除き)段位も五段までとしました。
 第14回大会より少し内容を変更して、低段位者中心としたチームが参加出来るよう、1部・2部に分けて幅広い制度になりました。
 第17回大会より女子部を新設、第21回大会より個人戦男子壮年の部(六段も参加可)も設けて内容を充実してきました。
 本大会参加人数は第1回大会は100名足らずでスタートしていますが一時は300名以上の参加をみた年も、現在では200名以上の参加者がある立派な県大会になっています。
 年に一度、7月最終日曜日を開催日と定め猛暑の中、選手の皆さん、審判、役員、関係者全員が汗を流しての剣道を通しての楽しく親睦の図る1日となって来ました。故古関幸平先生の大きな遺産であります。
今回、高崎市の新アリーナ創立に伴い会場を変更しての開催となりましたが、初めての会場なので選手の皆さん、関係者の皆さんには何かとご不便(不都合)をおかけすることと思いますが、ご理解(了承)のほど、よろしくお願いいたします。
 主催者側と致しましても、初代会長の「至誠」の意志を引き継ぐ思いで、県内剣道愛好者がこの大会にこぞって参加できるよう内容の更なる充実を図り群馬県の剣道発展の一助となるよう前向きに運営をしていきたいと思っています。
 ご支援、ご協力の程よろしくお願いいたします。

群馬県社会人剣道大会

歴代会長

  • 初代  古関幸平(高崎)  第1回~第26回(昭和43年~平成5年)
  • 二代  柴田重信(桐生)  第27回~第29回(平成6年~平成8年)
  • 三代  高津 進(藤岡)  第30回(平成9年)
  • 四代  熊倉菊蔵(前橋)  第31回~第37回(平成10年~平成16年)
  • 五代  橋本貞治(高崎)  第38回~第43回(平成17回~平成22回)
  • 六代  清水強雄(高崎)  第44回~現在(平成23年~)

高崎市武徳殿
第一回剣道大会(群馬県剣道連盟記念大会)が開催された

現在の高崎市武道館(市内石原町)
(昭和51年5月落成)

群馬県剣道連盟高崎支部のあゆみ


戦後群馬の剣道復活から再興への本拠地高崎武徳殿

剣道発祥の起源は岡田道場であった。道場の所在地は高崎市の郊外沖町である。創始者の初代岡田又八は、若くして剣道を志し,明治七年安中藩師範荒木流十五世岡田定五郎の門人となった。又八は道場英隆館で修業し明治二十三年免許皆伝となり荒木流道統を継承し道場を開設。これを学心館と名付け初代館長となり師弟の指導に当たった。明治四十五年岡田又八は県立高崎中学校(旧制)の初代剣道教師に迎えられる。高崎市においても剣道を志す者が多く、柔剣道のできる武徳殿建設の機運が盛り上がり、剣道の代表者に古関幸平師範、柔道の代表者に金井辰之助師範がなり、積極的に市に働きかけ、昭和十二年に高崎公園内に、京都の武徳殿をかたどった建物が完成した。
戦後、日本は無条件降伏し政府の外郭団体であった大日本武徳会は連合軍当局により解散を命じられた。武徳殿は没収となり、学校剣道は全面禁止となった。
昭和二十七年講和条約が発効され、日本の独立が回復。昭和二十八年学校剣道の禁止がようやく解かれ、念願の剣道が復活した。
久しく逆境にあって沈滞を続けていた剣道界は活気を呼び戻し、全国的な組織結成へと動き出した。昭和二十六年各支部の剣士五百余名が集まる中、武徳殿において結成記念大会が行われた。高崎支部もすでに結成されており、幸い戦火を免れた武徳殿は再び蘇り、青少年の心身鍛練の場として活況を呈した。
昭和四十三年三月武徳殿は高崎経済大学体育館に充てられた後、同体育館の新設に伴い解体された。その後再び柔剣道の武道館の必要が叫ばれるようになり,昭和四十九年五月高崎市武道館建設促進委員会が発足し、昭和五十一年五月に完成、現在に至っている。